少しくらいの不便を大目に見て、おおらかに生きませんか。

少しくらいの不便さは、より快適な社会を作るために必要だと思いませんか。

日本にいると、完璧で消費者にとって至れり尽くせりなサービスを享受するのが当たり前ですが、実は「完璧」を前提としてしまうと、自分自身が生きにくくなってしまうのです。

私が日本の官僚機構からアメリカの国際機関に転身し、アメリカの職場カルチャーに驚いたことの一つは、同僚の家族の事情(ほとんどが子供の病気)で打合せやミーティングがキャンセルないしリスケジュールされることが時々あるということでした。そして、そういうことがあっても大抵の場合、何とかなるということでした。

また、職場以外でも、公共の場などでサービスが滞ったりして、日本では考えられない状況に出くわすこともしばしばでした。例えば、地下鉄駅のエスカレータが故障してエスカレータを階段代わりに昇り降りするということはよくありました。役所や銀行などでも、担当者不在で、代わりの人は一応いるものの、全く対応できない、ということもありました。少し不便でしたが、それも何とかなりました。

日本に一時帰国するたびに、サービスの質の高さに驚きますし、多くの人が言うようにそれは日本が世界に誇ることなのだと思います。ただ、同時に、そこで働く多くの人の努力や犠牲のもとに成り立っているのではないかと感じずにはいられません。

私が日本で働いてきた時は「完璧に遂行する」ということが当たり前で、私の職場もそうでしたし、自然と、他の人にも求めていたと思います。

先日、日本人のオンラインコミュニティーで小さい子供が子育て中の方々が集まって、子育てと、仕事や自分の活動とどう両立させるかという話になりました。小さなお子さんをワンオペで育児をしつつ働いている女性も複数おられました。

そこで話題になったのは、子供が風邪をひいたときに子供の世話をしてくれる人がいなくて、病児保育も予約一杯で臨時ベビーシッターを頼むことはとても難しいといことでした。

サービスの受ける消費者として、あるいは同僚として、いつも完璧にサービスやロジスティクスが遂行されることが前提となっている場合、病気をすることが多い小さなお子さんを抱える親御さんは本当に大変です。

ここで必要なのは、消費者として、あるいは同僚として、相手に完璧を求めることなく、相手だって事情があると認識し、少しばかりの不便さを許容する姿勢ではないかと思います。そうすることで、巡り巡って自分にとっても快適な社会になると思います。

なお、私はヨルダンという新興国での生活が2年目になり、アメリカよりも更に不便なことにも出くわします。それでも何とかなってます。この生活のおかげで、日に日に自分がおおらかになってきます。